2005年 9月7日(水)

「野中真理子のときどき日記」を最後に書いたのは・・え!2004年10月7日・・。
ぁぁここをクリックしてくれた方に申しわけない。
記憶をたどって書きましょう。(ぜんぜん日記じゃないじゃん)


2004年10月23日(土) 
文化庁文化記録映画優秀賞の受賞式で初めて六本木ヒルズに行く。
 昼間は子どもの保育園の運動会で裸足で駈ける子どもたちや山羊や馬や紅葉の木々のなかに居た。だもんで、地下鉄おりて突如出現したすごい夜景に面食らって目がまわる。
 よろよろと会場のスカイラウンジにあがるエレベーターホールにたどり着くと、なんだなんだ。タキシードやイブニングドレスを着たいろんな国の人が数百人もたまっている。東京国際映画祭のレセプションパーティーに行くのね。わたしが行くのもそこらしい。
 でもみんなちょっとこわい顔してぶつぶつ文句言っている。そんな顔しちゃ、せっかくのお出かけ着が台無しだよ。なんて思っていると、アヤカさんがわたしを発見してくれて「ノナカさ〜ん、たいへんですよ〜。新潟のほうで大きな地震があって、ここのエレベーターみんな止まっちゃったんです。再開の見通したってないんですよ〜」新潟?あの人とあの人とあの人と・・・大丈夫か。(小一時間後会場着。無事受賞)


2005年1月23日(日) 
 
 新潟・長岡のトンギコ自主上映会に行く。
 あんな大変な地震があって、もうこの上映会はできないだろうと思っていたら、主催のハセガワさんが「こんなときだからこそ、なおさら子どもにも大人にも明るい時間を過ごしてほしいからやります!」て。すばらしい。
 会場のまわりは雪深い。5日前に小指をドアに挟んで骨折してしまったわたしは、ここで滑ってはならぬと気合いをいれて歩く。中に入ると座布団を並べた映写会場、映写してくださるのは長岡在住映画監督の小林茂さん。
 それから100畳くらいの部屋一面にブルーシートを敷き詰めたトンギコ広場ができている。地元の協力で借りたトンカチやノコギリなどの道具と、クギや材木の端材やビーズやモールや材料がいっぱい。そこでたくさんの子どもたちが夢中になってトントンギコギコつくっている。笑顔で見守る人、一緒にヒートアップしている人、おとなもみな楽しんでいる。厳しい体験を乗り越えようとする人たちと一緒に座布団にすわって見るトンギコ、良かった。情熱と志をもったたくさんの人と短いながら様々熱い話をして、前向きな力をもらって帰る。


2005年7月23日(土) 
 
東京・ポレポレ東中野夏休みトンギコアンコール上映初日。
 嬉しいウレシイ。アンコールだというのに、お客さまも8割方はいって活気ある初日に興奮する。おいでいただいて、みなさんに観ていただいて、映画は命を吹きこまれる。観てくださった人のなかで、生きはじめるのだ。
 去年の10/23にも実感済みだけど、わたしは揺れに鈍感らしい。いつも自分が(頭も体も)ぐるぐるぐらぐらしているからなのか。絶対NHK職員にはなれないな。(NHKの人は震度1でも「あ!地震だ!」とわかる)で上映を終え、取材のインタビューにこたえ、夏休みのはじまりを昂揚した気分でポレポレの入口にいた。また何も感じなかったのだが、直後にたくさんの人が「おお!」「あ!地震だ!」と叫ぶ。
 またわからなかったな〜。3くらい?ええー5!?にぶすぎるぞワタシ・・・。
 東中野駅ではJR総武線も地下鉄大江戸線も止まってしまい、NTTもつながらない。被害の大きさを知り「だいじょうぶ?」とトンギコ事務所にいる、アヤカさんの携帯にかける。「もう死ぬかと思いました!カウンターや棚の上の資料が全部なだれおちて、ヒッシで階段をおりて避難しました!」ああ、無事でよかった。築30年近い3階だてのビルの上に、仮設でつくられたような、カウンターだけのぼろい元バー。それがトンギコ事務所。あそこに居たらわたしの10倍くらい揺れたでしょう。
 で、そのあと新宿通りを徒歩で新宿まで避難したアヤカさんと合流。二人でヒッチハイクして、目的地の渋谷・松見坂に行く。バスもない、タクシーもないで、わたしが「ヒッチハイクするしかないね〜。女の人の車さがそう」と言って、信号待ちしている、一台の車の窓をノックしたとき、アヤカさんは「ええー、ほんとにするんですか、ノナカさん」とのけぞったらしい。(渋滞の東京・山手通りを小一時間も乗せてもらって、無事目的地着。下りるときお礼にトンギコの前売り券とチラシを渡す。そしてこれまた強運なドラマのあったソメヤさんと合流。)

 






















2004年 10月7日(木)

今発売中の新潮社「考える人」2004年秋号に、野中真理子が、バイオリン製作者の陳昌鉉氏を取材した文章が掲載されています。
冒頭のグラビアページと、本文は44ページと45ページの「母が手渡してくれたもの」です。

陳昌鉉氏は、1943年14歳のとき、働くために朝鮮から日本にわたり、さまざまな労働をしながら、独学でバイオリン製作を習得し、1976年に国際バイオリン・ビオラ・セロコンクールで6部門中5部門金メダルを獲得し、全世界でたった5人の「無鑑査マスターメーカー製作家」です。

陳さんとわたしの出会いは今年1月です。陳さんの著書「海峡を渡るバイオリン」を読んで深い感銘を受けたわたしが、どうしても陳さんに「トントンギコギコ図工の時間」を見ていただいて、これから制作するプログラムとフライヤーにコメントをいただきたくて、熱のこもったお便りを書いたのがはじまりです。
その熱意が通じ、おいそがしい中、初めの試写会においでいただいて、心のこもった原稿を書いていただきました。

わたしは原稿をいただきに、仙川のご自宅にうかがったのですが、その際、陳さんの素晴らしい人生の深さが刻まれたご自宅や工房を拝見して、いつか改めて何かのかたちで取材させていただきたいと思いました。

夏のはじめに、尊敬する学生時代の先輩である、新潮社の松家仁之さんから(彼は「考える人」の発案者であり編集長です)次号の「考える人」で、“子どもをめぐる耳よりな話”を特集するので、陳さんの子ども時代と初期に製作した子ども用バイオリンについて取材できないか、という相談を受け、喜んでお受けしたしだいです。

毎号ですが、今回も読み応えのある文章がたくさんある「考える人」です。
おすすめします。



2004年 9月28日(月)

富士山の絵を背にトークショーをする野中監督(右)

はじめまして、トンギコ製作上映委員会の太田です。
今日は育児に家事に仕事に大忙しな野中さんに代わって、とらば〜ゆカフェでの上映会をレポしたいと思いまーす。

今、青山に銭湯をイメージしたおしゃれカフェがオープンしております。なんで銭湯なのかと言うと、どうやら「とらば〜湯」ということらしいです。なんとま〜(笑)
オレンジの煙突におっきなのれんがとっても目を引きます。通りがかった人みんながついついのぞいてしまうたたずまいです。店内は番台や富士山の絵もあり、ほんとに銭湯みたい。貧乏学生の私にも嬉しい値段で飲み物も注文でき、カフェとしてすごくおすすめです。みなさん一度寄ってみてはいかがでしょう?

さて、日もすっかり沈み、そろそろお風呂につかりたくなる頃、富士山に大きなスクリーンがたれ、シネサロンが始まりました。
今回は「デジタルdeみんなのムービー」からプロジェクターとD-VHSのデッキをお借りしての上映です。「みんなのムービー」とは簡単な登録をするだけで、「トントンギコギコ」を上映するためのデッキとプロジェクターが無料でお借りできる、産業省が実施している事業のことです。
私は始めてこの機材での上映を見たのですが、とてもきれいでした。お客さんもたくさん入り、とてもいい湯加減な上映会でした。
トークショーは監督の就職活動時代、「世界の車窓から」の裏話、そして転職の動機、といった感じにとらばーゆならでは(?)の話しも伺えました。おもしろかったですよ。また明日からがんばろうって気になれたと言って下さるお客さんもいました。ほんと嬉しいです。

私は3月から「トンギコ」のお手伝いをさせてもらっているんですが、今回初めて自主上映会に参加しました。雰囲気が劇場とは違い、いろんな意味でお客さんとの距離が近かったです。緊張感が薄いんですね、例えばキョ君のシーンで笑いがおこった時いつもより笑いが自然にどっと出て、すごく心地良い笑いでした。
ああ、上映を楽しんでもらっているって体で実感できて幸せでした。会場全体がそういうなごやかな雰囲気です。一度自主上映会に足を運んでみるの、おすすめですよ。
次は10/2(土)「こどもの城」ですね。(また青山だ)
こちらでは「図工大好き展」が行われてるので、また楽しみだなー。





7月6日(火)猛暑の大阪。濃い一日。

朝4時に起きて家族の朝ご飯の支度して出発。
高崎線の始発に乗って東京駅へ。新幹線で新大阪着10時、大阪着10時15分。

今日は、7/31(土)から大阪十三の第七藝術劇場ではじまる「トントンギコギコ図工の時間」夏休みロードショーの宣伝をするのだ。取材と、プレミア上映を2回。大阪上映の応援団をしてくださる方々に観てもらってチラシや前売り券を預かってもらうのだ。大阪の宣伝を仕切ってくれるカンコさんが、昨日送ってくれたスケジュール表見ると、すごい分刻みの取材である。10時半から20時までのあいだに6人の取材者名があるんだもん。
毎日新聞の大道寺さん〜朝日新聞の大村さん〜お昼〜読売新聞の近藤さん〜1回目上映中・毎日放送の辻井さん〜2回目上映中・産経新聞の早瀬さんとミニコミ誌・映画サークルの林さん。けっこう寝不足だし、こんなにしゃべり続けられるかしらん、とどきどきする。大阪駅構内からつづくホテルの喫茶店に着くと間もなく、毎日新聞の大道寺さん登場。二児の母だ。カンコさんと3人で、働く母の子育ては大騒ぎ話などして、映画の話もして、写真も喫茶店で撮って、あっと言う間の1時間。

すぐに登場朝日新聞の大村さん。二児の父。「トントンギコギコ図工の時間」は複雑な映画じゃないし、記事にする多様な切り口があるわけもないのだが、記者がかわると、その人の映画の感想も質問の仕方もまるで違うので、新鮮な思いでまた熱心に話せてしまうのが自分でも不思議である。これが記者の人たちの才能というものかもしれない。気がつくと、大村さんにわかってもらいたい、という気持ちで一生懸命しゃべっているわたしがいる。喫茶店でパチリと撮ってもらう。

映画を上映するドーンセンターに移動して、ささっとお昼ごはん。ここでもカンコさんと大声で話しつづける。で、読売新聞の近藤さん登場。近藤さんには3年前の「こどもの時間」のときも取材してもらったから懐かしい。そのときは5歳のお嬢さんのお母さんだったけど、今日の近藤さんのお腹は臨月だ。さらに嬉しい。映画のことや、近藤さんが最近取材した子育て中有の母親の意識調査の話でもりあがり、気がつくと1回目のプレミア上映の開場間近の2時55分だ。写真をパチリと撮ってもらって、会場の受付にあわてて行く。

大阪教育大学の岩崎先生はじめ、そうそうたる京阪神の教育大学の先生、小学校の図工研究会の先生や、多くの方にご紹介いただいた応援団のみなさんがご来場。大感謝である。みなさんにご挨拶しながら忙しくしていると、いつのまにか毎日放送の辻井さんと一緒のカメラマンがそんなわたしを撮影している。イソガシイソガシ。

ふと映写室を見ると、今日の上映担当の第七芸術劇場の支配人の松村さんが青ざめて凍っている。ただでさえ胃のわるそーな松井さんが、ただならぬ緊張感だ。「どーしたの?」と聞くと、「映らないんです・・・」泣きそうだ。はー!?どういうこと!?聞けば、彼がここでビデオテープの映写をするのは2回目だが、前回のときはこの部屋にオペレーターがいて、テープを渡しただけで上映できたのに、今日はそのオペレーターがいないとのこと。オペレーターは週2回しか来なくて、今日は来る日じゃないこと。そんなこと知らなくて、スクリーンのおろし方一つ、どのボタンを押せば良いのやらさっぱりわからないこと。ドーンセンターのほかのスタッフにもさっぱりわからなくて、みんな当惑している。云々。

時計を見れば上映開始予定の3時30分だ。とにかく上映しなくちゃ。まず目の前で取材をしてくれている毎日放送の辻井さんと一緒のカメラマン氏と、ビデオエンジニア氏に「すみません!緊急事態発生です!DVcamで上映したいんですけど、手伝ってください!」と頼み、ご来場のマイシャのみなさんに(東京のマイシャで編集の段階でお世話になった)まだご挨拶もしてなくてお名前も知らないし、彼らの所属が技術部なのか制作なのか、はたまた営業なのかもわからなかったけど、とにかく「すみません!DVcamで上映したいんですけど、おわかりになる方お願いします!」と頼むと、3人も来てくれる。で、松井さんに「わたし時間稼ぎにしゃべってますから、なんとかやってください!」と言い残して、ご着席のみなさんの前におもむろに現れて映画をつくった思いや、制作日誌など話し続ける。わたしの目の前のお客さんの後方に映写室があって、そこはガラス張りで、てんやわんやの奮闘ぶりがよく見える。この間抜けな事態と急展開、ドタバタ喜劇だよね。

で、わたしには永遠の時間に思えたけど30分ほど話したところで、ガラスの向こうにオーケーを知らせるサインが出たので「大変お待たせいたしました。どうぞごゆっくりご覧ください」と言えたのさ。あー、よかった。

上映がはじまって、どっと疲れが出そうになった時、毎日放送の辻井さんがすーっと来て「ではお話伺いたいので、大阪城が隣ですから、外でお堀の並木道でも歩きながら・・・」と言う。えー、外なのー?今日はこの夏一番の猛暑なんだよーん。と思うが、この窮地を救う手助けもしていただいたことだし、はいはい行きましょう。と目がくらむような炎天下を、辻井さんと二人で歩き、カメラマン氏とビデオエンジニア氏が汗を流しながら撮影してくれた。

うんとご迷惑かけたのにもかかわらず、上映終わると拍手がわき、大変よかったとお言葉いただく。チラシ、前売り券、ポスターをたくさんあずかってくださる。感謝感謝。1回目の方々、2回目にご来場の方々と、たくさんたくさん話す。話せば話すほど、相手の気持ちがわかり、自分の伝えたい思いも沸きあがり、いつまでも話がとまらない。2回目の上映は無事はじまり、まだ話しているとカンコさんに「野中さん、産経の早瀬さんずっと待ってはるでー」と言われて、やっとさよならする。で、早瀬さんと伝統ある映画ミニコミ誌・映画サークルの佐伯さんに取材していただいて、2回目の上映後に、またたくさんの方とお話して、21時終了。

「すごい好評やったし、みなさんに応援してもらってよかったね」とカンコさん。「野中さんにおこられると思ったら生きた心地がしませんでした。でも上映できてよかったですわ」と松井さん。おふたりとも、ほんとご苦労様ありがとうございます。フットワークのよさとユーモアと情熱、香港ロケのスタッフを思い出す。大阪ロードショーも盛り上がりそうで楽しみ楽しみ。


二人と別れたあと、大阪から快速に乗って30分、京都に行く。今日の大村さんはじめ朝日新聞の記者の方を何人も紹介してくれた学生時代の先輩の草川さんと飲む。草川さんは今、大津の支局総長で、大津住まいなので京都で会うことになった。22時すぎ京都四条河原町のしゃれたバーに着くと、草川さんと部下の中務(なかつかさ)さんが待ってくれている。で、草川さんが申し訳なさそうに言う。「申し訳ない。今支局に連絡したら、ややこしいコロシの事件がおきて、若い担当はいるのだけれど、やはりわたしは戻らなくてはなりません」おおー、コロシで戻るとはドラマのようなホントの話ではなうかと感激。それでもしばらく草川さん飲んで、名新聞記者の哲学を聞いてここまで来てよかったなあと思う。そのあと美人記者中務さんと、いっぱい飲んで食べてしゃべって25時半、宿にチェックイン。お風呂にはいって気を失ったように眠る。

翌朝、部屋に差し入れられた京都新聞の一面に、草川さんが昨日戻った一件、滋賀の湖東記念病院の女性の看護助手が、病院への反感から、患者の呼吸器を故意にはずして殺した一件が載っていた。リアルな記事に興奮して、ごはんも食べずチェックアウトして、京都駅で朝日新聞を買うと、こちらの一面は新潟の男子小学6年生が包丁で友だちに斬りつけた事件で、湖東病院の件は三面の3番目くらいの扱いで出ていた。読売も買い、新聞記者の人生や新聞記事のできかたに思いをはせながら東京に戻る。

桶川着12時半。それから3年生の息子の授業参観に行った。




2004年 6月29日(火) 猛暑

こずえちゃんと二人で荷物を棚に整理する。ひじょうに暑いが、エアコンをつけると病気になりそうな臭いがするのでつけない。壁にマイペットをかけると、ホラー映画で顔が崩れるように、煙草のヤニが流れ落ち、きゃーきゃー喜んでしまう。こんなやりがいのある掃除は久しぶり。気持ちの落ちこんでいる人を呼んで一緒にまぜてあげたいほどだ。掃除すると元気になるよー。大阪のプレミア上映用のプログラムやポスターを、重い荷物の下の方から取りだして梱包、クロネコ初集荷。自主上映会問い合わせの電話が鳴って、あちこち電話をかけて、ばたばたしていると、ついに来た!この古いエアコンの救世主、ダスキンのおじさんとおばさんが。汗を流しながら黙々と、幾層にも積み重なったヘドロのような汚れを掃除してくれる。わたしが感慨深げに眺めていると、おじさんが「史上最高ですね」と汗をふく。「わたし、年に500台は掃除してますけど、この汚れは史上最高ですよ」そうだったのか。20年ちかくそのまんまだったのか・・・。通常の汚れなら2本の洗剤を使い1時間くらいで済むらしいが、これには7本も使って2時間半もかかったのだ。それでも料金は定価の1万6800円。その上、2時間を過ぎた頃、わたしが「まだかかりますか」と尋ねると、「そうですね、もう少しやりたいんですよね。あと30分大丈夫ですか?」もちろん大丈夫ですよ。暑くても臭くても手抜きしないこのプロ意識、学ばねば。終わったあと、冷えた野菜ジュースをお渡しして感謝する。



2004年 6月28日(月)

荒木町日記第一日目。
四谷駅でおりて荒木町へ。四谷は文房具屋さん、本屋さん、飲み屋さんが多くて良い町だ。今日の記念に紅いセロテープの台840円で買う。荷物の海をかきわけて仕事する。かなり暑いけれど、エアコン汚れていて臭うのでつけない。兵庫県西宮郵便局から電話あり。「〒番号も県名以外の住所も、西宮にある宛名の大学と合うんですが、岡山県ってあるんです。お出しになったのは岡山県宛ですか?こちら宛てですか?」ううーん、わからない。7月31日から始まる大阪ロードショーのご案内を関西方面に送ったのだが、なんという入力ミス。番地まであっているのだから、それは西宮に送ってください、とお願いする。こんな暑い日に、西宮郵便局親切である。荒木町で聴く初めての関西弁。電話が通じているってロマンチック、など感慨にふける。昼。エアコン掃除のおじさんが来る前にお弁当でも買おうと外に出ると、ハレルヤ食堂の看板が目に飛びこんでくる。即座にお弁当は忘れて、ドアをあける。しかし残念ながら満席。出ようとすると、誰かに肩をたたかれる。おおー、文化放送のゴッドマザー五井さんではないか。ご同僚とランチの様子。席をつめていただいて、まぜてもらう。いつもおいそがしい五井さんには会える、美味なるプルコギ定食は食べられる、しかも引越祝いにごちそうしていただく。幸運なはじまりで、ウキウキと事務所に帰る。するとエアコン掃除のおじさんが遅れて登場し「このエアコンは古すぎて、ウチではクリーニングできません」ショックである。すすけた品名をよく見れば、フロンなんとかとある。古いよこれは。風の抜ける窓もないし、氷嚢でもないと仕事にならんなあ・・・。かゆいのでバルサンたいて帰る。夕方。子ども二人を迎えてから、明日の掃除用の道具をカインズホームで買う。四谷で買ったら高いだろうと思って、82円のバケツとか10枚200円の雑巾とか色々買う。この青いバケツにトイレ掃除のブラシ(312円)とかも入れて、桶川から四谷までぶらさげていくのだ。おばさんの離れ業だ。




2004年 6月24日(木)

朝。ごはんつくって、洗濯干して、ゴミ出して、子どもたちの支度を手伝ったり、自分の化粧したりで飛ぶようにばたばたしていると、夫が起きてきて「今起きる前に夢見たんだけどさ」と話し出す。家族みんなが起き出して大声で話していて、雨戸もあけて朝日さんさんの部屋で、よく夢なんか見るなこの人、と思って聞く。「歌舞伎座行くのに電車乗ってて、気がついたら 履いてるのがセッタでさ」セッタは雪駄じゃなくて、6年前に石垣島で買った300円のゴム草履だ。真冬も愛用している。「で、夢の中で、これから家に戻って履き替えてると、歌舞伎に間に合わなくなるしどうしよう、って考えているところで目がさめたんだ」「しかもそのとき、履き替えるのは靴がいいかな、サンダル(680円)がいいかな、ってサンダルも選択肢に入ってたんだよね」毎日激務のサラリーマンが、平日の朝どうしてこんなのどかな夢を見るんだろう。でもこういう羊のいる丘みたいなアタマの人だから、わたしが始終どたばたしてても平気なのかもしれない。ありがとうセッタ。 今日は事務所の引っ越しだ。昼はせっせと荷造り。夕方アークビデオの高井さんと若い衆と、海プロの新垣さんと池田さんが来てくれて、重い箱をどんどん運び出してあっというまに車にのせてくれる。お世話になりました東中野。目指すは四谷荒木町。とても久しぶりに新宿通りのネオンをワゴン車の助手席からながめる。この通りはこの場所から夜見るのが好き。ドンキホーテの前とか特にいい。エレベーターのない細い階段に「おもーい!」という声を響かせながら荷揚げ。みなさまどうもありがとうございます。いかにも愉しいことが始まりそうな新事務所が荷物の海となる。トントンギコギコ荒木町日記はじまりはじまり。



2004年4月29日(木) 晴れ

 「公開二日前」 朝10時前ポレポレ東中野。
三日野のウチノ先生が、トラックに映画館外の壁面を飾る子どもたちのアート作品と手作りの立派な棚と木の工作と絵、そして道具一式を積んでやってくる。バイクで主事のタカハラさんもやってくる。それから新宿区立四谷第四小学校の図工のスズイシ先生。
われわれスタッフは夏海さん、米山さん、石井さん、池田さん、わたしと、きさらちゃん、そしてあやさん。

午前中すごい手際の良さで、外のかっこいい壁面飾り付けと色鮮やかな幟が完成!
午後、「猫のミヌース」上映中にそっとみんなでロビーに棚を設置して子どもたちの作品を飾る。階段下りる途中の壁には、新3年生全員の作品「オンリーワンフラワー」。
ポレポレ東中野の支配人の大槻さん、堀田さんにも綺麗だね、いいですね、と言われほっとするし、嬉しい。

イラストレーターの森優子さんと2年生のももちゃんがバナナをいっぱいお土産にもってきてくれて、一緒にてつだってくれる。
プログラムに掲載した森さんの描いた図工室の原画も飾る。これは昨日アートディレクターの田部良子さんが、マウントカッターで自分でマウントして持ってきてくれた。「だって頼むと高くなっちゃうからね」て。みんなありがとう。

この模様とわたしのインタビューをNHK「おはよう日本」の取材チームが撮影。放送は公開初日の5月1日土曜日朝7時半から8時のあいだとのこと。

こうして映画館で盛り上がっている最中、5階では「こどもの時間」の育ての母である橋本こずえさんがあやさんと一緒に、自主上映会のご案内など一式を作ってくれる。心強い!

それから階段手すりに「休み時間の図工の時間〜お絵描き作品」を貼るための黒紙をはり、石井さんと、池田さんと、一日野の図工のオオタ先生がひたすら円切りカッターで色画用紙を切り抜く。
ももちゃんが絵を描いて最初に貼ってくれた。壁に心弾む花が咲く。このあともあれこれあれこれとやって、くたくた満足で帰宅。




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